矢部川をつなぐ会事務局


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序章 風土が織り成す水の綾模様

矢部川の文化遺産 廻水路


「こんな山間地に、なぜ延々と大きな水路が!」

八女市から矢部村方面へ向かうと、矢部川沿いに総延長二十四㎞に及ぶ七つの農業用水路が左岸、右岸交互に現れます。これが、江戸時代初期から末期にかけて、農業利水を巡り柳川・久留米の両藩が存亡を賭けて築造した「廻水路」です。 これらの構築物は、今でも矢部川流域でその使命を果たし続けています。これらの貴重な土木遺産について、紙面を借りて皆さんと訪ね歩いてみましょう。
矢部川廻水路図

 

第一章 柳川藩と久留米藩の御境川

廻水路の仕組み

矢部川は、福岡県の南部に位置し、奥八女の峰々を水源として、八女市東部で最大の支川星野川と合流し、南筑後の沖積平野を貫流して筑紫ノ海(有明海)へと注ぎます。全長約六十㎞の河川です。そして、古くから、その肥沃な南部筑後平野の灌漑用水の大半を、この矢部川の水流が一手に引き受けてきました。

一般に、水田を潤おすためには、灌漑面積の約十五倍の水源面積が必要だといわれています。
しかし、矢部川では、僅か四倍程しかありません。矢部川流域では、そのような厳しい水利環境にもかかわらず、江戸時代初期から、久留米領では矢部川水系から分流する山ノ井川・花宗川、柳川領では広瀬水路などが整備され、水田地帯が広がり続けました。さらに、柳川領では、有明海の干拓により、沖へ向かっても稲作地帯が拡大し続けました。

そして、矢部川が柳川領・久留米領の境(このことから御境川と呼ばれた)とされた特異な地理的条件も重なり、廻水路という他の河川に例を見ない水利施設が矢部川沿いに左右岸交互に営々と築造されることとなりました。廻水路とは、取水した水を、下流の相手側の堰を迂回して、さらにその下流にある自領の堰へ、安定的に廻水するための水路です。

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第二章「争いなき分かちあい」の思い

唐ノ瀬用水路の成立

元和六年(一六二〇)、筑後領主田中家廃絶の後、柳川領再封となった立花宗茂にとって最大の課題は、領内灌漑用水のための安定した水源確保策でした。そのため、宗茂は国割にあたって、久留米領と水源が競合する矢部川上流域を、矢部川本川を藩境として対等に二分する万全の策を講じました。これは、永く子孫末裔に至るまで、自領水は自領域で賄うという思想のもと、干拓などの大規模開田事業に当れるようにとの宗茂の遠謀深慮によるものでした。そして、その水源を二分する「争いなき分ちあい」の思いは、その後永い年月を経た今日でも、矢部川筋で生活を営む人々のなかに、様々な形態の「水利慣行」として生き続けています。

まず、矢部川の廻水路が成立するまでを、その起源に焦点を置きながら推測を交え大胆に思い巡らしてみます。四百年程前の江戸時代初期、花宗堰のすぐ上流、矢部川と星野川が合流する付近の柳川領山崎地区が、矢部川堤防の築造により肥沃な水田へと生まれ変わりました。この新田への灌漑用水は、上流の唐ノ瀬堰からの取水で賄われました。
延宝八年(一六八〇)になると唐ノ瀬堰が改めて強化され、その用水路(柳川用水路)が整備されました。柳川領側の干拓による開田化が進み用水不足を来たしたためでした。しかし、その慣行が久留米領側と最終的に成立するには十七年を要しました。

この間、柳川領側の堤防築造により、花宗地点では本川の堰上げが可能となり、早速この恩恵を受けて、久留米領側でも、貞享二年(一六八五)に花宗堰を整備強化しました。

込野堰

花宗堰強化の一年後の貞享三年(一六八六)には、柳川領側の込野堰が、上妻郡谷川村・境原・四方堂地区(立花町)の水田を灌漑するために設けられました。堰を設けた位置は、久留米領の黒木堰(寛文四年(一六六四)に黒木・本分地区などを灌漑のため築造)の落水を受ける絶妙の場所でした。込野堰掛りの用排水の大半は必然的に柳川用水へ流下し柳川領側への流量増となりました。しかし、この時点では、込野用水路や唐ノ瀬用水路(柳川用水路)が花宗堰を迂回する廻水路として機能しているとの認識は両藩ともなかったようです。

 

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第三章 廻水路取水の成立

惣河内堰

宝 暦十二年(一七六二)、大干ばつを機に、久留米領側は、唐ノ瀬堰の上流湯辺田に、北田形村の灌漑を 兼ねて惣河内堰を設けました。この用水路の余排水は唐ノ瀬堰の下流に落水させたため、唐ノ瀬堰を迂回して花宗堰へ廻水させる 機能を持つこととなりました。ここに初めて廻水路による取水方式が成立しました。

この惣河内廻水路築造に対抗するため、柳川領側では、込野灌漑用水路の上流部を拡幅し、惣河内堰直下へ導く廻水路をしたてました。 柳川領側の込野廻水路の強化が、久留米領側惣河内堰への流量低下をきたしました。

このため、寛政六年(一七九四)に久留米領側では、従来単なる黒木地区の灌漑用水路であった黒木用水路を、その末端を堰上げ、断崖を巡って水路を延長し、込野堰の直下に放流させることにより廻水路に仕替えました。 久留米領側はこれに加え、黒木堰の上流に設けられていた馬渡堰の水路を強化延長し、黒木廻水路の上端を実質的に上流へ三㎞延しました。

黒木廻水路

この区間の柳川領側は、断崖と岩山が連続して川岸に迫り、そこでの廻水路構築は到底できそうには見えませんでした。しかし、宝暦十三年(一七六三)に大梅・原・中江の三地区(名)の水田灌漑を目的に設けられていた三ケ名用水路を、幾多の苦心と難工事の末、総延長六㎞にわたり拡幅延長し、文化十一年(一八一四)に黒木堰下へ落水する廻水路に仕替えました。

久留米領側では弘化元年(一八四四)に仏石に花巡堰を設け、三ケ名堰の下流で落水する廻水路を開削しました。堰の構造は、自然の砂礫堆が形づくった人工の手をほとんど加えないものでした。この花巡堰は、廻水路にかかわる矢部川最上流端の堰であり、その集水域は久留米領・柳川領の両域に跨っていました。このため、洪水後の僅かな堰の修復や取水方式で激しく競合するところとなり、その都度、日田代官所の調停のもとその扱いを取り決めていたものと推測されています。

話は下流受益地区へと転じます。堰と廻水路により導水された用水は、久留米領では花宗堰、柳川領では広瀬堰・松原堰を元堰として取水され、さらに、下流域一円の水田へと木の枝状に配分されました。しかし、それらの配水分流箇所の多くが流量配分方式や水路分岐構造について、相互信頼に基づいており、なんらの条文化もなされませんでした。そして、藩政時代の慣行そのままに、今もなお、差略、流れ分け、掻きたて堰、草堰、木杭堰、置石、木樋設置など、この地域特有の配水慣行方式で受け継がれています。

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最終章 そして現代へ   

矢部川に設けられた多くの井堰と廻水路は、明治新政府に移行後も、幾多の変遷を経ながら整備拡充されてきました。その施設運営は、現在も、花宗用水組合、柳川市他三ケ町土木組合、花宗太田土木組合の三地方公共団体組合の関連施設として存続しています。
明治期以降、それらの組合により、花巡地区の助水路新設や黒木地区の助水路延長、廻水路を跨ぐ数多くの石橋架設など、近代土木技術を駆使した施設整備が図られました。その外、花宗溜池の築造、用水路の施設改修維持や春水慣行・差略・田方配水などの特別配水管理も行われてきました。また、水車動力源として廻水路用水の活用を図るなど、施設の多面的利用にも積極的に取り組まれました。
一方、昭和三十八年には、花巡堰の上流に日向神ダムが県の河川事業において竣工しました。これにより、ダムの容量のうち七百三十万㎥が農業用水として利用できるようになりました。しかし、その後も、渇水が厳しくなりダムが底をつく段階では、藩政時代さながらの旧慣行に戻り、廻水路機能がフルに発揮される状況が再現されます。

現在、矢部川流域では、域内の水の合理化や筑後川流域も含めた広域相互水融通システムの確立などが鋭意図られています。しかし、絶対的水不足という状況は、今後とも変わりなく続く矢部川の地形上の宿命です。そのようななか、四百年の長きにわたり流域の稲作を支えてきた廻水路は、協調の風土を礎として、この地特有の互譲の水利慣行を育みながら、今後ともその役割を果たし続けていくことでしょう。


八女市文化財専門委員 馬場紘一


 

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筆者紹介


馬場紘一
技術士(建設部門)。郷土八女の歴史文化の地などをカメラを携え探訪し、八女市横町町家交流館等において、八女の眼鏡橋・樹木・滝・湧水・廻水路などの写真を展示。また、郷土の歴史文化を題材とした小中学校の課外授業、環境保全啓蒙にも取組む。著書に「石匠の技 福岡県南地方の石橋」など。 八女市文化財専門委員。


 

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